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コインロッカーの心臓

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速読書

小学6年~中学2年頃、速読教室に通ってたんだけれど、速読は読書とまったく別の物だと思った。
速読は、本を読むことではなく、読むのを速くすることが目的で、
読むのを速くして、そこから何を得られるかが問題。
字を書くこと、書けることを前提とする書道みたいなものなのかも知れない、これはたぶんたとえが良くない。
速読は本や文字が読める人なら、やろうと思えば誰でもできるもの。
目をどう動かすか、視界をどう認識するか、文字をどう捉えるか、考えて読めばできるようになる。
一番大事なのは、速く本を読むっていう感覚ではなくて、本の映像を見るという感覚で読むこと。
字面や流し読みで感覚的に捉えるのではなく、あくまで、速く、読む。全部見る。
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うつらう

magazineっていうのは元々「倉庫」っていう意味で、雑誌という意味につながるのは「知識の倉庫」という意味かららしい。
zineに込められた想いとかはまだ、本当に何もわからないけれど、magazineを簡素化してzineにしたっていうことは、「知識の倉庫」となって雑誌という意味をもったmagazineを、再び「倉庫」のみに戻しているのではないか、と。
「知識」が内容を指すのであれば、「倉庫」は形を指す。そうするとzineは形ということになって、magazineを簡素化した形というのは冊子となる。
zineは冊子である、ということになるんだけど、冊子という形は、内容があるということも含んでいる、というか、内容(物質的な中身であるし、また中の情報でもある)がなければ冊子にはならない。
それは絵であったり、写真であったり、少なくとも冊子という形(zine)にはならない。
これらをふまえてzineを考えると、雑誌じゃないか、と思うけれど、そこで雑誌に立ち戻らないで「倉庫」として考えてみる。
「倉庫」はもう何を入れてもいいというイメージ。でも生モノとか、日常的に使うものとか、入れておくとだめになってしまうもの、使いようがなくなってしまうものは入れない。
使わないんだけど、持っていたいもの、そういうものを入れる。
私はずっと子供でいたいと思っていて、それは絶対的に可能だと思っている。(成長を止める、とかではなく)
子供でいることによって何がどうなっていくかはまだ考え途中で、今は書けないけれど。
なんでここで子供を出したかというと、「倉庫」に入れるものに、子供があって、それは子供でいたいという感情から出ているから。
倉庫にしまう、って、子供自体は直接関わらないこと。大人が判断して、また様子を見て倉庫にしまう。
「倉庫」はその分子供の意思とは少し離れたところにある、冷静な場所のように思った。
ぐちゃぐちゃんなってきたなー。
odc∞cmのzineを、作品集のような形態にしなかったのは、そういう「倉庫」な感じを出したかったから(というのは、今考えて出たことだけれど)
でも同人誌とも言わないし、雑誌とも言わないし、発行物というのはそんな雰囲気をくんでほしかったのかなー、とか考えたり。
結果できたzineは、冊子という形は辛うじて保っているけど、正直、オブジェのようになっている。

飽きたのでまた今度書けるといい。

idol

idolとは。
偶像、信仰の対象になる像であり、実体として扱われる虚像。
それ自体に立体感(実体感)はなく、それを見た人の中でのみ実体が構築される。
見える部分からでしか、情報を得られない。

私はパソコンと向き合うとき、たとえ周りに人がいたとしても、一人だという意識でいます。
それは大勢が一同に使うことを目的としたものではないというの理由もあるが、一番の大きな理由は、画面上に自分だけの実体(虚像、偶像)を作り上げてしまうからなのです。
パソコンに積まれたデータは実体ではなく、虚像だと言えるでしょう。
私が画面に向き合いデータを目にした時、データは視覚や聴覚を刺激して私の中で実体となっていく。
つまり、パソコンで見るデータは、idolということになるのです。

それがよくわかるのは、急増した「嫁」という文化です。
youtubeの普及や、ニコニコ動画などでアニメを気軽にいつでも見られるようになったことなども要因にあるようですが、実はパソコンでデータを見るということがそもそもの要因なのではないでしょうか。
上でも書いたように、偶像を個人の中で実体化することで「嫁」という自分に近い感覚を呼び起こします。
嫁には、花嫁など、一時的な夢の存在という意味も込められていたりして、妻とはまた違う現実とは少し離れた所にある言葉のように思えます。
データから享受される「嫁」もまたidolとしての存在であるのかもしれません。

http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/
私にとってフィギュアは不完全な虚像です。
確かにきれいでかわいらしい形であり、見て楽しむこともできますが、そこに実体を感じてしまい、自分の中での実体を作ることができなくなってしまうのです。
自然に溶け込むフィギュアは、虚像でなく、idolでなく、フィギュアという実体であるとしか考えられません。
そこでフィギュアを虚像にするために、フラッシュをたき、立体感をなくして撮る方法をとりました。
床に置くことで天と地とその間にある重力が感じられず、三次元ではなくなりました。
コントラストの強い影はぽっかりとフィギュアが白い紙の上から抜け出て写真の一部になったように見えます。

http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/fp007.html
次にアイドル、AKB48のまゆゆ、こと渡辺麻友ちゃんのアーティスト写真。
写真を撮ることでデータ化されたまゆゆを見せる。
写真に写ったまゆゆ、を見せることができるのです。
それによって人間らしさや親近感をなくすことができるのではないか、と思いました。

次に出てくる妹の写真。
これは過去の写真で、私の中でidolである妹です。
おそらく当時思っていたよりも、今考えている過去の妹はidolらしい。
それは過去の妹、という実体がなく、写真という虚像しか残っていないからです。
もちろん妹は今私の横にいます。
しかしその妹と、過去の妹とは私にとって別の存在だと言えるのです。

http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/fm001.html
死んだメリー。
私はこのメリーをかわいいと思っています。
もちろん死んだという事実は悲しいし、たくさん泣いて、今も思い出したくないくらいですが、骨になって淡いピンク色の布に包まれたメリーを見ると、すごい勢いで私の頭の中をメリーがかけめぐるんです。
私にとって、これが虚像です。
私や家族以外の人がこれを見ても「かわいそう」と思うだけです。「かわいい」と言われたことはありません。
それは、メリーが家にきて、家で過ごして、死んでいって、それを受け入れるという過程を経験したのが私と家族だけだから。
他人にとってこのメリーは遺骨という実体でしかないのです。

http://mau-photo.com/DHK1/2009/C01/last.html
最後に、このWEBサイトのindexを写真に撮ったもの。
写真だとは気付かれないと思いました。
それは、今までの写真の白背景と、indexの白背景を混同してみてしまっているからです。

「蝉」、これがBerryz工房の中で一番好きな曲かも知れない。

夏休み、里帰り。
親戚が集まって、夕飯のすき焼きとか、大勢でトランプとか、特別な日常にそわそわする。
それがちょっと楽しくて、うきうきして、でも、田舎の夜は早くて眠い。
携帯は圏外で、だからあなたにはお土産に、私の大好きなはっかの和菓子をたくさん買うわ。
あと三日で帰るのは、ちょっと寂しくて、
弟が自慢げに見せびらかす蝉はジージーとうるさい。

そんな感じの曲で、弟が蝉を見せびらかすところも好きだけど、途中でお夜食を食べるところがあって、そこがたまらなく好き。
バターを入れたラーメン、たっぷり入ったお野菜は、私が作ったのよ、って。

何よりこれをBerryz工房が歌ってるっていうのが重要で、小学生とも、中学生ともつかない曖昧な存在の女の子たちが口を開けて熱心に歌ってる、っていうのが短命な蝉と相まって必死さと共に微妙な倦怠感も感じる。
ハロプロ特有の、何か変な音、が気持ちよくてさらにいい!
一度聴いてみるべきな曲です。

援助

援助交際を迫られると、私に価値がうまれると共に、一気に転落して、瞬時に無価値になる。
相手は私を必要としている、でもそれは私自身ではなく、私の存在で、存在があればいい、ということでもある。
お金は私に替わると無価値になる。
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[07/02 だつお]
[07/02 かそち]
[07/02 だつお]
[07/01 7]
[06/09 ねこ]
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融ける
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