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じさつによるわたしのさいしゅうフレーズ
メンヘラにはいった。わたしはにほんじんとくゆうっていわれるのがいやなので、じさつはしたくないです。みんながしんでしまえばいいとおもうんだけど、それはじさつするのとおなじなんだよね。ただちがうのはむずかしいってこと。なんいどのもんだい。みんなしね、はわりとおおくのひとびとがいだいていることだとおもうんだけどじっさいにはだれもできてない。みんなそんなことできない。できないからみんなしねっておもう。みんなしね、がじつげんできないことをしらないひとがじさつをする。そのときじさつをするひとがかんがえるみんなしね、はおおくのばあいがおそらくはんどうけいせい。みんなしね、わたしはいきるかちなんてない、いきるかちをみんなもたせてくれない、みんながわたしをたすければいいのに、っておもう。ただすがりたくないからじさつをする。というよりも、ただたんにちょっとまちがえただけなのかもしれない。もしかしたらじさつをするひとはみんなしね、をじっこうしたかったんだろう。みんな、つまりわたしをふくめたまわりのひとびと、せかいのひとびとにたいしてしね、といっているんだけど、おそらくひとりでいっぺんに、しかもちしきがとぼしいままじっこうすることがうまくできなくて、てじかなじぶんをさいしょにしんでしまうの。でもじぶんがしんだらもちろんわたしはいなくなるから、みんなしね、がたっせいできなくなる。すくなくともわたしをぬいたみんなのしてんからみるとたっせいはできていない。わたしからみるとしたらそれはかわる。わたしがいなくなれば、とうぜんみんなしね、をじっこうしようとしたわたしのせいしんもいなくなるわけだから、みんなしね、はたっせいできていないことにはならない。むしろみんなしね、がたっせいしたときにこそみんなしね、というせいしんがなくなるから、わたしがいなくなる、つまりじさつするということはみんなしね、がたっせいされたことになる。ここでもんだいにみえるのがみえるのがみんなしね、をわたしいがいのにんげんもしくはほかのものにつたえたばあいだが、それはさしてきにしなくてもだいじょうぶだ。まわりにつたわったみんなしね、はどこにいこうとわたしのせいしんであったことにかわりはなく、わたしがいなくなることでみんなしね、というかんじょうはすっかりきえさってしまうからだ。かんせいしないれくいえむ
のさいしゅうフレーズのように。ようするに、わたしがいなくなったときにわたしのせいしんにきをとめるひとはそのむねのそこによそうもつかないフレーズをならしていくこととなるのだ。
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